幸せになりたい(1)幸せへのキーワード 愛に満ちた歯科医院を目指して

何を信じて何を信じないのか

人は「何を信じて何を信じないか」で人生が変わってくるような気がしています。
ほとんどの小さい子供はサンタクロースの存在を信じています。
逆にほとんどの大人はサンタクロースの存在を信じていません。

小さい子供でサンタクロースの存在を信じていない子供は、「可愛げのない子供」と受け取られます。
逆に、大人でサンタクロースの存在を信じている人は、「現実感のない人」と受け取られます。
子供では許されて大人では許されないことは色々とあるのかもしれませんが、サンタクロースの存在を信じることが肯定される年齢の境目って何歳なんでしょうか?

大人がサンタクロースの存在を信じてはいけないのでしょうか?
サンタクロースの存在を信じている子供と信じていない子供を比較すると、絶対にサンタクロースの存在を信じている子供の方が幸せだと思います。
大人の場合、サンタクロースの存在を信じている大人と信じていない大人を比較すると、どちらの方が幸せなのでしょうか?

残念ながら、私もサンタクロースの存在を信じていない方の部類になります。
しかし、サンタクロースの存在を信じている大人の人がいたとしたら、そういう人を否定してはいけないような気がします。

人は目に見えないものや科学的に証明できないことは否定したがります。
しかし、信じている人がそのことを信じることで幸せな気持ちになれるのであれば、何を信じるかは個人個人の自由の気がします。

私は、占いや風水やパワースポットなどは信じませんが、輪廻転生や霊魂や死後の世界は信じています。
ナポレオンの言うように、人間は本気になれば「できないことはない!」と信じていますが、人間は本来怠け者で、意識しなければ楽な道に流される生き物だとも信じています。

周りから見れば、私はシャイで人見知りのタイプだと思われているかもしれないけど、自分のことを「人見知り」の人間だと信じてもいい事なんて1つもないので、私の中では自分は絶対に人見知りタイプではなく、必要な時にはきちんと対応できる人間だと信じています(正確には信じようとしています)。

人は、潜在意識の中で、自分が信じたような人間になっていきます。
誰かに迷惑をかけるのでなければ、自分が前向きに生きていけるために、「何を信じて何を信じないのか」を決めていくべきなんだと思います。

「何を信じて何を信じないのか」で人生の質は変わってくるのだと思います。
自分の人生を前向きに、明るいものと思えるようにしていくためにも、「何を信じて何を信じないのか」に真剣に向かい合う必要があるような気がします。

人生は錯覚である

人は目の前に起きた現象について、いろんな解釈をすることができるものです。
「人間万事塞翁が馬」という諺がありますが、目の前の出来事に一喜一憂しても次の出来事で解釈が変わることが起きうるということなので、絶対的な事実というものは存在していなくて、全ては自分の解釈次第だということなのだと思います。

例えば、宝くじが当たれば誰でもハッピーなのかもしれませんが、宝くじであぶく銭を手にしたばかりに金銭感覚がマヒして、浪費癖が身について結果的に当たらない方が幸せなこともあります。
また、大学入試に失敗して、進路を変えたおかげで天職と思える仕事に巡り合うこともあります。

人間は神様ではないので、目の前の出来事が本当に「いい出来事」なのか、「悪い出来事」なのかを判断しても無意味なのだと思います。
別の表現を使えば、どんなに「いい出来事」と思えることにも、必ず足元をすくわれかねない危険な可能性も含まれていますし、逆にどんなに「悪い出来事」と思えることでさえ、大きな変化を起こすチャンスが含まれているものです。

人間である以上「いい出来事」が起きればうれしいし、「悪い出来事」が起きれば心配になるものです。
そういう素直な感情を無理に抑圧する必要はありませんし、感じ方をコントロールすることはとても難しいです。

それでは、目の前の「いい出来事」「悪い出来事」にどう向かい合うことが正解なのでしょうか?
この答えのヒントは、目の前の出来事を「偶然」ととらえるか、「必然」ととらえるかの違いにあるようは気がします。

目の前に起こっている出来事は、全ては自分の成長のために生まれる前から用意されていたストーリーなのだと思うことで、「この出来事から何を学べばいいのだろう?」と前向きに考えることができるのだと思います。
そして、自分の人生を他人の人生のように俯瞰して眺めることが、感情に流されないで冷静に判断できるコツのような気がします。

自分の悩みを軽減するために、自分の人生を他人の人生のように客観視できるためには、普段から、他人のことも自分のことのように尊重して生きていなければ、辛い出来事が起こった時だけ、嫌な出来事を他人事のようには切り替えられないものです。

他人事を自分事のように対処していくことで、自分事も少しずつ他人事のように感じることができるのだと思います。
「難しいことはシンプル」に「簡単なことは慎重に」「生きることは死ぬことである」「生まれた瞬間から死に近づいている」「他人事は自分事」「自分事も他人事」「人生は(成長のための)暇つぶし」「人生は錯覚である」etc……

人生は錯覚なのであれば、「自分はついている」「人生はうまくできている」と錯覚する方が得なのである。
あなたは、どんな錯覚や先入観を持って生きていますか?

プラス思考の勘違い

プラス思考を無神経、能天気と勘違いしている人が多いことが気になります。
どんな嫌なことが起きても、明るく、前向きに振る舞える人のことをプラス思考と言い、嫌なことが起きて落ち込んだり、悩む人間はプラス思考ではなくてマイナス思考の人だと分類している人が多いような気がします。

そういう分類方法で、私も自分のことをマイナス思考の人間だと長い間思い込んでいましたので、その気持ちはわかります。
私自身、プラス思考の人間は、持って生まれたものであって、いろいろ試したが自分は絶対にプラス思考にはなれないと信じていました。

しかしながら、いろいろ勉強したり、いろんなことを試行錯誤していくうちに、プラス思考って目指すかどうかの違いだけで、誰でも身につけることができることに気が付きました。
人は、それまで生きてきた経験が先入観や常識となって、それをもとに目の前の出来事を「いいこと」と「悪いこと」に無意識で区分けしてしまいます。

「悪いこと」と判断したことを、一生懸命努力して「いいこと」と思い込もうとする行為をプラス思考なんだと思っていました。
しかし、やはり「悪いこと」は無理に「いいこと」と思い込もうとしてもどこかに無理が来てしまうものなのです。

物事は「悪いこと」と思った段階で、悪循環が始まるようになっています。
目の前の出来事を「いいこと」と思えるように、自分の中での先入観と常識を変えていくしかないのです。
「プラス思考って目指すかどうかの違いだけで、誰でも身につけることができることに気がついた」、というのは、自分の先入観と価値観を変えていけば、プラス思考は自然と結果としてついてくるものなのです。

世の中で、プロセスを飛ばして、結果を求めすぎるために、逆に結果が伴わないことは多くあります。
スポーツで「勝利」という結果を求めすぎるために、平常心が保てなくなって勝てる相手にも勝てなくなったり、「お金」という結果を求めるあまり、目先の欲に目がくらんで「信用」という大切なものを失って、結果としてお金からも縁遠くなったり、相手を変えようとして頭ごなしに威圧して、結局、相手は反発して関係が悪化したり………「結果」にフォーカスするあまり、本来フォーカスするべきプロセスが忘れ去られてしまうのでしょう。

プラス思考は結果であって、フォーカスすべきは、先入観という自分の中での色眼鏡なのです。
目の前の出来事を「悪いこと」と思っているのは自分なのです。
100人中99人がその出来事を「悪いこと」と思っていても、その出来事を「いいこと」と思う決定権は、自分にあるのです。

試験に落ちても、恋人に振られても、お金を落としても「いいこと」と思う人間はいるのです。
そういう人は、無理してでも、目の前で起こること全てを「いいこと」と思い込もうと習慣にしているのです。
「いいこと」と思えない場合でも、無理してでもせめて「悪いこと」と思わないように意識しているのです。
感情に流されて物事を判断していると、多くのことが「悪いこと」「嫌なこと」になってしまいます。

しかし、自分の意識の中で「悪いこと」「嫌なこと」と決まった瞬間から、悪循環がスタートするのです。
自分の人生を好循環に回していきたいのであれば、自分の人生の中での「悪いこと」「嫌なこと」と決めつけることを減らしていくしかないのです。

How are you? と聞かれれば、相手が医者じゃなければ、いつもI am fine.と答えることが大切なんだと思います。
「あそこが痛い」、「ここが悪い」と答えたところで、何も好転するわけでなければ、自分に暗示するためにも、常にI am fine. が正解なんだと思います。

目の前の出来事を、常に「いいこと」と工夫するために大切なのは、感謝する気持ちを常に持つことではないかと思います。
普通に考えれば、嫌に思えることが起きても、神様は自分を鍛えてくれるために、この人を送り込んでくれたのだ、「神様、自分を鍛えてくれてありがとう!」と心の中で思えば、好循環がスタートするのです。

最近は、プラス思考になるための努力というのは、人間としての義務ではないかとさえ思えます。
一人一人が目の前の出来事を、前向きに受け止めれば、場の空気も和んでくるし、相手のことも思いやれると思います。
厳しい言い方をすれば、死ぬまでマイナス思考のままでいるということは、人として人生における義務を遂行していないと言ってもいいのではないかとさえ思います。

プラス思考への正しいやり方を知らなかったのであれば、今現在、マイナス思考というのは、仕方のないことだと思います。
しかし、自分が楽に生きていいくため、他人を思いやるため、世の中をよくしていくためにも、自分の先入観を変えて、目の前の出来事を少しでも「いいこと」に受け止める考え方を工夫していくことは、絶対に大切な事だと思います。

プラス思考というのは、目の前で起きている出来事を10個のうち10個プラスに受け止めることではないと思います。
スタートは10個の出来事中10個ともマイナスに受け止めてもいいのだと思います。
死ぬまでに10個中1つでも多くのことを「いいこと」と思える人間を目指すのかどうかの違いだと思います。

人は、「プラス思考で生きていければいい」のではなく、「プラス思考に近づくために生きている」と言っても過言ではないかと思います。
少しずつ「いいこと」と思えることを増やしていって、1年かけて10個中1個「いいこと」に思えるようになれば、後は時間の問題だと思います。

結局、プラス思考は、考え方の習慣なのだと思います。
英語を身につけるように、この単語は英語でどういうかを覚えていくように、目の前の出来事を、こういうケースではどう考えていけばいいのか、ということを、1つ1つ習慣にしていくことで、少しずつでも、自分の中の先入観を変えていけると信じられるかどうかで、時間がたって振り返ってみれば、以前の自分とは全く変わった先入観を獲得できているのだと思います。

プラス思考とは、死ぬまで追及していくべき課題なのだと思います。
完璧な人もいないし、全然ダメな人もいないと思います。
まずは、プラス思考の向こうにどんなメリットがあるかに気づく事からのスタートのような気がします。
プラス思考のメリットに気づいて、自分の心が動いたら、後はプラス思考を心から目指したいと思うかどうかの心の持ち方の差だけで、人生は天と地の違いがあると思います。

ポジティブとネガティブ

朝起きて「今日一日、いいことがあるのか、嫌なことがあるのか、どんなことが待っているのだろう?」と無意識に考えることがあります。
出来事を「いいことがあるのか、嫌なことがあるのか」という分類に分けると、1/2の確率でその日1日が嫌な日になってしまいます。

そもそも「いいことがあるのか、嫌なことがあるのか」というのは、「自分の望むことが起きるのか、自分の望まないことが起きるのか」という分類になってきます。
世の中は、自分の思い通りにはならないことの方が多いので、こういう分類で1日を分類していたのでは、「嫌な日」の方が多くなってきます。

そして「今日1日何かいいことが起きないかな~」という期待を持って1日を迎え、「何もいいことがなかった」という失望の気持ちで1日が終わってしまいます。
その積み重ねで、人生をマイナス思考で考えてしまうと「生きることは嫌なことばかり起こってしまう」という結論になってしまいがちなのではないでしょうか?

目の前に起こる出来事を「いいことか、嫌なことか」で分類すると、どうしても上記のような思考の流れになってきます。
それではどういう視点で目の前に起こる出来事を受けてとめていけば、人生が前向きに受け止めることができるのでしょうか?

私は、「人生は魂を成長させるためにある」と信じています。
「魂の成長」という視点で目の前に起こることを捉えていくと、目の前で起こる出来事は「自分を成長させてくれる出来事と自分に自信をつけてくれる出来事」に分類できます。

最初の「いいことがあるのか、嫌なことがあるのか」という分類方法は、視点を変えれば、「いいこと」「自分の望むこと」は、「自信をつけてくれる」出来事であり、「嫌なこと」「自分の望まないこと」は「自分を成長させてくれる」出来事に分類できます。

目の前に起こっていることは「自分を成長させてくれるか」「自分に自信をつけさせてくれるか」のどちらかでしかないのであれば、「人生は自分にとっていいことしか起こっていない」ことになってきます。

物事にはいろんな視点があります。
物事はどういう視点でとらえることができるかで、「プラス思考と」「マイナス思考」に分類できるのだと思います。
ポジティブかネガティブというのは、持って生まれた性格の違いではなく、後天的な思考法の違いなのだと思います。

自己肯定感

私には2人の娘がいますが、子育てをしていて一番気にしていることが、子供の「自己肯定感」を育んでいきたいということです。
私自身、自分のことを受け入れることができなくて、自己嫌悪感の強い時期が長く続きました。
「続きました」と過去形にしていますが、今でも、自己肯定感を高めていきたいという課題は、自分の中で、最大の課題ではあります。

昔の自分と今の自分の大きな違いは、どうしていけば自己肯定感を高めていけるかということを知ってきたことと、そのことを少しずつでも実践してきているという安心感があるので、「自己嫌悪の強い時期が長く続きました。」という過去形の形を取らせていただきました。

過去の自分は、自己嫌悪感が強くて、自分を否定しながら生きてきていたので、未来も暗いものでしたが、今は、自己肯定感を高めるために自分がやるべきことはわかっているので、自分の未来に希望を持てるところが大きな違いだと思っています。

なぜ人間には自己肯定感が必要なのかを自分なりに考えた時、自己肯定感が持てないことで、自分だけでなく周りの人にも悪影響を与えたり、毒をまき散らして世の中を悪くしていることに気が付くようになってきました。
以前の自分の中で、自己肯定感の高い人は、自惚れやか傲慢な人間だと思っていました。
自分のことを好きになりたいけど、傲慢な人間にはなりたくない、という葛藤があったのだと思います。
でも今では、自己肯定感を持つことは傲慢とは全く違うものだと信じられるようになりました。

傲慢とは、I am OK. You are not OK.ですが、自己肯定感は、I am OK. You are OK、too.だと思います。
他人を認めるためにも、まずは自分のことを受け入れていく必要があるのだと思います。
ちなみに、傲慢の反対の劣等感は、I am not OK. You are OK.なのでしょう。
自己肯定感と同じYou are OK.でも、自分を受け入れていないYou are OK.は、妬みや僻みに流れてしまいます。
I am not OK. You are not OK,too.は絶望と呼ぶのかな??(笑)

世の中のいじめは、傲慢と劣等感の招く結果だと思います。
自分が幸せになるためにも、世の中がよくなるためにも、相手を認める必要があるのだと思います。
そのためには、I am OK.は必要不可欠な要素のように感じます。

I am OK.だけに意識がいくと、どんどん傲慢になってしまいそうですが、「You are OK、too.を実現するため」ということを強く意識していくことで、傲慢になっていくことを予防できるのではないかと思います。
人から嫌われたり、後ろ指を指されるI am OK.ではなく、他人に優しくなれる為、他人に喜んでしまうため、他人を否定しないためのI am OK.が自己肯定感なのだと思います。

自分が、自己肯定感を高めることで、周りの人間にもいい意味での感染、洗脳をしていきたいと思っています。
私は自己嫌悪感が強い人間だったからこそ、周りの人に自己肯定感の大切さを伝えていく責任と使命があるような気がします。

人間は、自分が長く悩んでいたことにこそ、それを克服した時にそれを伝えていくミッションがあるのではないかと思います。
そしてそこに自分の居場所や自分の存在意義と感じられるような気がします。

自分を好きになる

自己嫌悪率100%だった私だから言えると思いますが、自分を好きになる事は、全ての人にとってのテーマではないかと思います。
自分のことを受け入れられない人が、他人を受け入れられることはありません。

自分のことを好きなれないということは不幸です。
不幸な人が他人に優しくなれるはずがありません。
人は自分が持っている優しさや思いやりの一部を他人にも分け与えることができると思っています。

自分を好きなるということは、傲慢、自己中心、自信過剰、ナルシストとは似て非なるものです。
私の考える自分を好きになるということは、 I am OK. You are OK. です。
一方、傲慢、自己中心、自信過剰、ナルシストは、I am OK. You are not OK. です。

自分も頑張ってるよ、すごいね。
みんなも頑張っているんだね。みんなもすごいよ。
と思えれば、心は常に安定できると思います。

自分を受け入れられない人は、他人の批判、あら捜しをして他人を自分より劣った人間にしようとしてしまいます。
自分が努力するよりも他人のあらを捜して貶める方が簡単なので、どうしても人は安きに流れます。
しかし、その先には心の安定はありません

自分を好きになるためには、もう一人の自分に対して恥ずかしくない言動をしていかなければなりません。
一朝一夕には、人は成長できないですが、日々少しづつ自分に恥じない言動を増やしていくことで、自分のことを少しづつ受け入れていき、好きになっていけるのではないかと思います。

役を演じる

私は高校生や大学生の時に「いい人だね」と言われるのがすごく嫌でした。
当時は、「いい人」というのは、他に褒めることがないからとってつけたようにしか聞こえなかったです。
若い時は「かっこいい」とか「個性的だ」とか言われる人がうらやましくて「いい人だ」というのは、なぐさめ程度にしか感じていませんでした。

それが、最近でも時々「いい人だ」と言われると、すごくうれしく感じる変化に気が付きます。
「いい人だ」は、今の自分にとっては最高の褒め言葉の一つぐらいうれしくなります。
しかし、心のどこかでは自分は決していい人ではなく、いい人を演じているだけだと感じるところもあります。

高校生ぐらいの時に、いい人を演じていたのは、自分に自信がない裏返しだし、他人から嫌われたくないからいい人ぶっていたような気がします。
今でも学生時代の名残りで、いい人を演じる癖が続いているような気がします(笑)
そう感じると、人生ってどういう役を演じるかで他人からの印象って決まってくるように思います。

歯科医院を開業して数年たった頃に、同級生から「少しずつ院長らしくなってきたね」と言われて、自分では一切そんなことは気にしたことがなかったけど、周りの目にはそう映っているんだと不思議に思ったことがあります。
そう思うと、自分は「いい人」を演じたり、「院長」や「父親」を演じているうちに、少しずつそれらしくなってきているのではないかと思うようになってきました。

私は自分のことをネガティブで、人見知りで恥ずかしがり屋だと思っています。
リーダーシップのかけらもないし、人前で話をするのは苦手だと思っていました。
しかし、立場上、リーダーぽく振る舞わないといけないし、人前でも話をしなければなりません。
嫌々でもそういうことを繰り返していくうちに、それらしく見えるようになってきているのに気が付きました。
そう思うと、人って、その役を演じているうちにそれらしくなっていくのだと思うようになってきました。

自分の人生は自分が主役です。自分がどの役を選ぶのも自由です。
後ろ向きで暗い役を選ぶのも、前向きではつらつとした役を選ぶのも自分の意志で決められます。
そうだとしたら、今世において、自分がなりたいと思う役を演じて少しずつその役に近づいていけたらいいのではないかと思います。

高倉健さんが「貰った役の人に少しでも近づくために自分を律しているということを読んだことがありますが、人生自分の好きな役を演じることが可能なのであれば、自分をどういう役に設定するかは自分次第なのではないかと思います。

「青山健一」という役を自分のなりたい人間に設定して、その役を演じながら少しずつ設定上の「青山健一」に近づいていくのが人生なのかなぁ~と感じる今日この頃です。
そうして、死ぬときに役者のように自分の設定した「青山健一」に近づけたかどうか振り返っていきたいなぁ~と思います。

潜在意識は、現実も想像も区別がつかないと言われているので、想像上の自分を現実の自分にしてしまえばいいんだと思っています。

許すということ

人は誰しも過ちを犯すし、失敗しながら学んでいく生き物だと思う。
しかし、自分の失敗では自分を強く責めて過度に落ち込み、他人の失敗では、相手の失敗を過度に追及してしまう傾向にあるのが人間なのだと思います。

自分の失敗へのとらえ方と他人の失敗へのとらえ方には相関関係があるように思います。
それは、他人の失敗を許せない人ほど、自分が失敗した時にも同じように自分が他人から責められているように感じてしまい、強く自分を責めてしまいがちになるのではないかと思うことがあります。

人生は、「鏡の法則」「自分の先入観で周りの見え方が違ってくる」「与えたものしか手に入らない」など、結局は自分の思いが目の前の形になって現れたり見えてしまう、という現実があります。
自分も失敗するし、他人も失敗します。

そんな時、他人の失敗を許せる人間に近づいていくことが自分の失敗で過度に落ち込まないで済む唯一の方法なのではないかと考えるようになってきました。

そうはいっても、どうすれば他人の失敗に寛容になれるのだろうか?と考えた時、例えばその人のした失敗が自分にとって無関係の時には寛容になれますが、自分に損害を与えたり、自分の中での非常識なレベルのことだったりすると、どうしても怒りという感情が優位に立ってイライラしたり感情的になってしまいます。

感情のスイッチがいったん入ってしまうと、なかなか簡単にはスイッチを切ることは難しいものですが、「他人を責めれば責めるほど、それは必ず違う形で自分に返ってくる」と信じることで、感情と一致してしまって自分の思考を客観視することができて、少しは他人の失敗に寛容になれるような気がします。

一方で、「許すことの大切さ」の逆の見方として、他人の失敗に寛容になることと、他人の失敗を見過ごすこととの違いは何なのか?という疑問が湧いてきました。
野球でミスをした人間に「ドンマイ、ドンマイ」という背景には、「お前のミスも責めないから、俺のミスも責めないでくれよ!」という甘えの気持ちの「許し」があります。

こんななれ合いのチームでは、決して強いチームになっていくことはないでしょう。
当クリニックにおいても、「これぐらいのことを注意して自分が嫌われたくない」と思っている社員はいます。
「許す」ことと「なれ合いにする」ことの違いは「利己」か「利他」の違いではないかと感じます。

相手にとってや自分のチームにとって必要なことを言うべき時に言えなくて「ドンマイ、ドンマイ」と自分のミスをした時の保険を用意している人間は、完全に「利己的」な人間ですが、相手が十分反省している状況で、自分の感情のはけ口として感情的に相手を責めることを自粛したり、自分に矢印を向けることで自分に何ができるかを考える人は「利他」的な人間だと思います。

「許す」ことが善で、「注意すること」が悪なわけではありません。
「怒る」と「叱る」は違うとよく言われますが、自分の感情のはけ口として感情的に叱ることを「怒る」といい、相手をよくしてあげたいという気持ちから発するものが「叱る」なんだと思います。

そうは言っても、「怒る」気持ちが100%、「叱る」気持ちが0%、などという極端なものではなく、自分の気持ちは51%が「怒る気持ちなのか、それとも「叱る気持ちなのかと、どちらの気持ちを意識して相手に伝えようとしているかということを俯瞰してみていくことが大切なのだと思います。

人間は不完全な生き物だから、完全な行いはできないでしょうが、自分の行為は「なれ合い」なのか「許している」のかを意識しながら生きていくことで、本当の「許し」を習得できるような気がしています。

利己のために見て見ないふりをする「偽の許し」をいくら重ねても、その人は永遠に人を許せる人間にはなれないと思います。
人を許せる人間になるためには、優しさだけでなく強さも必要なんだと思います。

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