幸せになりたい(2)幸せへのキーワード 愛に満ちた歯科医院を目指して

自分は正しい!!!

人間関係がこじれるきっかけで、「自分は正しい!」と思った瞬間にある場合が多いような気がします。
「自分は正しい。相手は間違っている」と思えるから気持ちも高ぶって語気も荒くなりがちです。
「自分が正しい!!」と思った瞬間に、自分が「正義」で相手が「悪」のように感じて、自分は警察官で相手を犯人のように追い詰めようとしてしまいます。(笑)

「泥棒にも三分の理」と言われるように、相手には相手の言い分があります。
それを自分の正義で相手を追い詰めると相手も感情的に反撃してきます(笑)
追い詰める方も追い詰められる方もどちらも感情的になってきます。

正しい方は、「相手は何で間違っているのに訂正したり謝らないんだ!」とより感情にスイッチが入ってしまいます。
感情的になった時点で、相手は聞く耳を持たなくなってしまいます。

「自分は正しい!」と感じている時こそ、自分の感情にスイッチが入らないように気を付けなければなりません。
そのためには、「自分は正しい!」と感じた時こそ、難しいですが一呼吸おいて、相手の気持ちになって向き合うことが大切なような気がします。

この議論は「自分の正しさ」を証明するためのものなのか、相手に納得してもらうための議論なのかを俯瞰した状態で再認識することが大切なのかもしれません。
「自分は正しい!」と思った時こそ、一呼吸おくことを習慣にできれば、言い争いは減ってくるし、相手も素直になりやすいような気がします。

「怒る」ということ

「怒らない」というテーマの本を何冊か読んだことがあります。
そういう本がベストセラーになっているということは、怒っている自分を変えたいと思っている人が世の中には多いということなのでしょう。
私もその一人ですが………(笑)

本の結論から言いますと、怒らないための方法は、怒っている自分を客観視することだと思います。
「おっ、自分は今怒っているぞ!」
「怒っている自分はかっこ悪いぞ!」
「怒るということは、自分は正しい&相手は間違っている、と自分が裁判官か神様だと勘違いしていることだぞ!」
「怒るということは、自分で自分の体を破壊していることだぞ!」
「怒りとは何かに脅えている証拠だぞ!」
……等々

自分がしている「怒る」という行動が、客観的に見たらどういう意味と価値があるのかということが俯瞰できれば、「怒り」が消えないまでも、怒りの程度は確実に減ってきます。
「怒る」ということは、感情にスイッチが入っていることで、理性の力で抑え込むことは容易なことではありません。

人間は、感情と理性がケンカすれば、感情が勝つようにできています。
感情には感情で対抗するしかありません。
「怒り」という感情に対して、「怒る事」がどんなに自分を傷つけているのか、自分が損をしているのかということが、心の深い部分まで腑に落ちないと、一時の感情の力に流されてしまいます。

「怒る」ことで沢山痛い目にあった人は、少しづつ深い部分で「怒る」ことについてのマイナスの意味と価値に気が付くのだと思います。
「心の底から2度と怒りたくない!怒らない人間になりたい!」と決心しなければ、「怒る」という感情に流されてしまうのだと思います。

禁煙、禁酒、違法ドラッグと同じぐらいの覚悟が必要なんだと思います。
偉そうに言っていますが、私自身、日々、「怒り」と葛藤しています。
「怒らない」人間になりたいけど、「自分は正しい、相手は間違っている」と感じた時には、「怒って当然」という、自己弁護が頭に浮かびます。

何が正しくて何が間違っているかは、環境や状況によっても違ってくるものですが、人間は自分の価値観で安易に判断しがちです。
「人とはこうあるべき」という価値観を他人に押し付けてしまう人は、「怒る」頻度も多くなってしまいます。

最近、幸せな人生かどうかというのは、「怒り」の頻度や程度が少ないことではないかと感じます。
他人を許すから、自分も許せるのだと思います。
他人を許せない人は、コンプレックスが強かったり、他人をバカにした人が多いです。

自分の価値観を他人に押し付けたり、強要する人間は、価値観のぶつかり合いで常に感情的な生活を送らなければいけなくなってくるのだと思います。
「怒らない」人生が、幸せな人生なんだと思いますが、それでも「怒ってしまう」場合には、「この怒りは自分の為の怒りか、それとも他人の為の怒りか?」ということを問いかけて、誰かのための怒りなら、100歩譲って受け入れていいのかな?と思います。

でも、いつかは、「怒り」という感情を自分の理性でコントロールできるぐらいのレベルまで小さくしていきたいと思います。

感情の受け止め方

「人間は感情の動物である」と言われていますが、感情にも歓迎できる感情とそうでない感情があるように思います。
例えば、怒り、悲しみなどは、感じると嫌な気持ちになりますし、できるだけ早くその感情から離れた状態になりたいと思うのが自然のような気がします。

しかし、嫌な感情、避けたい感情だからこそ、真剣にその感情と向き合うことで何かが得られるような気がします。

「悲しい」「寂しい」「悔しい」と感じたら、「なぜ?」自分はそう感じているのだろう? 自分は、「どういう時」にそう感じるのだろう? この感情をプラスの行動に転じるためにはどう受け入れればいいのだろう? などなど、嫌な感情から逃げるのではなく、その気持ちをプラスに転化できる考え方を自分で持てれば、望まない感情が脳裏に浮かんだ時にも、決して100%マイナスなわけではないのだ、と思えるような気がします。

これは、「うれしい」「ありがたい」など好ましい感情が、浮かんだ時にも、「なぜ?」自分はそう感じているのだろう? 自分は、「どういう時」にそう感じるのだろう? この感情をプラスの行動に転じるためにはどう受け入れればいいのだろう? と考えることで、自分は、そういう場面に意識的に多く出会えるようになってくるのではないだろうか、と思います。

私は、いい感情も好ましくない感情も、すべては自分の受け止め方でいい方向にも悪い方向にも進んでしまうと感じています。
いい感情の時にもいい気にならないで、好ましくない感情の時にも逃げないで向き合うことで、自分の気持ちを俯瞰でき、感情に振り回されないで冷静な自分をキープできるようになってくると思います。

人間は感情を感じるために生きていますが、感情に振り回される人生になってしまうのか、感情を楽しむ人生に変えていくのかは、自分の感情を他人事のように俯瞰できるかどうかにかかっているような気がします。

毒を以(もつ)て毒を制する

日々仕事をしていて(というか生きていて)一番難しくて一番大切なことは感情のコントロールではないかと感じることが多いです。
自分の出来事において、「あっ、今自分は感情に流されている。このままでは悪い方向に向かっている」と自覚している場合でも、理性で自分の感情をコントロールできないことの方が多いです。

まだ自分で「感情に流されている」事に気づいている時には、傷は最小限で済みますが、自分で自分の感情に気づいた時には「後の祭り」「時すでに遅し」ということも少なくありません。
感情のコントロールは、自分の中では「幸せになるため」にはすごく優先順位の高い項目なので、安易に感情に流されている人を見ると、「自分はこうなりたくない!!」という自省の気持ちで見てしまいます。

「自分のことは自分が一番気づいていない」と言われますが、他人の「感情に流されている言動」は自分の時以上に度々目につきます。
そういう人を見ると、「この人も感情に流されているのだから自分も普通だ」と自分を正当化する時と、「こういう生き方をしていたら幸せになれないと「人のふり見てわがふり直そう」と自分を戒めることもあります。

瞑想やマインドフルネスで良く言わせることに、「感情的になったら深呼吸して一呼吸置くと良い」と言われているのですが、なかなか私の様な凡人には一呼吸ぐらいでは嫌な感情は立ち去ってくれません。十呼吸ぐらい必要かもしれません(笑)

私の中では、自分の感情をコントロールするためには、「感情に流されて」痛い目にあい続けるしかないのではないかと少し諦めています(笑)
その痛い目が自分の心の奥深くにしみ込んだ時に、「2度とあの思いはしたくない!!」という後悔の気持ちが、感情に流されそうな時に自分にブレーキをかけてくれるのだと感じています。

感情と理性がケンカをしても、圧倒的に感情が勝利します。
感情を抑えることが出来るのは、痛い目にあって感じた感情だけだと思います。
「毒を以(もつ)て毒を制する」ということわざがありますが、感情に流されて痛い経験をしていくことでしか、深く学ぶことは出来ないのではないかと思っています。

「痛い目にあわないと人は学べない!!」というのが私の信条なので、痛い目に会った時にはその経験を繰り返さないように、深く自分と向き合って次につなげながら成長していきたいと思っています。

スタートは感情、ゴールは理性

日々の日常において、感情の力と理性の力を俯瞰しながら物事にあたっているような気がします。
「人間は感情の動物」と言われていますが、何事においても最初に感情が動きます。
「めんどくさいなぁ~」「ラッキー」「お腹すいたなぁ」「あっ、きれいな人だ!(笑)」など心が動くからそれに伴った行動をします。

「面倒くさい!」と感じれば、面倒くさい言動が続きます。
「ラッキー!」と思えば自然と軽やかな身のこなしになります。
人は目の前の出来事に「意味付け」をして、感情が動きます。
「雨が降ったらついてない」「ひいきのスポーツチームが勝てばついている」「財布を落とせばついている」いろんな出来事に意味をつけて感情にスイッチが入ります。

「ついてない」と思えば、気持ちは沈みます。
「ついている」と思えば感謝の気持ちが芽生え、笑顔が出ます。
出来事に「意味付け」をして「感情にスイッチが入り」感情に合った「行動」をして流されていきます。

この一連の流れの中で、自分でコントロールできるのはどの部分でしょうか?
出来事に対する「意味付け」は、これまでの先入観や思い込みによるものなので簡単には変えることが出来ません。

雨が降るとほとんどの人は条件反射で「ついてない」と思うけど、農家の人は条件反射で「ついている」と思うと思います。
同じ出来事への「意味付け」はそれまでの経験や環境によって決まってくるので、簡単に変えることはできません。

「意味付け」を変えることが出来なければ、それに伴う「感じ方」を変えることもできません。
「感じ方」を変えることは出来なくても、そう「感じている」その瞬間の自分の感じ方を俯瞰して気づくことはできます。

自分の「感じる」ままに流されてしまうと、簡単に「感情にスイッチが入ってしまいます」が、自分の感じ方を俯瞰できれば、感情にスイッチが入ることを予防できます。
今の自分は「感情に流されそうになっている」ことを俯瞰できれば、行動を変えることで軌道修正ができます。

「人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるのだ」と言われていますが、悲しいという感情に流されれば泣くのが自然になりますが、自分の悲しい感情を客観視できれば、その後の行動は泣くことも笑うことも自分の意志で決めることが出来ます。

感情をコントロールすることはできませんが、行動はコントロールできます。
出来事のきっかけは、心が動くこと、感じることがスタートかもしれませんが、最終的に行動するのは自分の意志で決めれます。

泣けば悲しくなりますし、笑えば嬉しくなります。
「ついてない」と思えば、投げやりの言動になりますし、「ついている」と思えば前向きな言動になります。

「出来事は1つ 受け止め方は2つ」と言われていますが、自分はどんな未来を望んでいるのかで、どういう受け止め方をした方がいいのかが決まってくるように思います。
感情に流されて行動していれば、人生はみんな同じ不幸な結果になってしまいます。

幸せになりたいのであれば、今の感情に流された言動をするのではなく、自分が望む未来に合った言動をしていくことが大切なんだと思います。
スタートは感じることでも、ゴールは理性が決めていくことが、明るい未来を切り開いていくのだと信じています。

現在、過去、未来

人は、現在、過去、未来を使い分けながら生きているように思います。
その使い方を間違えると、過去に固執して今をないがしろにしたり、未来を心配して今現在をおろそかにしたりしてしまいます。

一番大切なのは、今現在をどう生きるかです。
私は、過去と未来は、今を充実させるための道具だと思っています。
今をどう生きるかで、過去を正当化でき、未来が明るいものになってきます。

しかし、生きているといろんなことが起こりますし、日々、常に前向きにエネルギッシュに生きることは難しいです。
そんな時、過去を思い出して自分の成長を喜び、未来を夢見てワクワクすることで苦労を楽しみに変えていくことができるようになると思います。

今後、過去を思い出して成長を喜ぶためには、今を頑張らなければいけません。
未来を夢見る時、ワクワクするような夢を見るためには、今を頑張らなければいけません。
現在と過去、未来はつながっているのです。

過去と未来を輝かせるためには、今現在を充実させていくしかないのです。
現在、過去、未来を悪循環で回していくか、良い循環で回していくかは、今をどう生きていくかにかかっていることを自覚して生きていきたいと思います。

生きがいについて

YouTubeで無期懲役の受刑者の特集をしていました。
一生服役する人にとっての「生きがい」について考えさせられました。
私の中で夢や希望や目標などがなければ、生きるのはしんどいと思っています。
「こうなりたい」「これを手にしたい」「誰かに認められたい」etc等々

今の平和な時代において、人にとって一番しんどいことは「生きるために生きる」ことだと思っています。
戦時中や生きることが奇跡的であったり大変な時代においては、「生き抜くために生きる」ことが目標になる時もあったと思います。
そんな時代でも夢や目標等のある人とない人とでは、生き方に大きな違いがあったことと思います。

ナチスのユダヤ迫害についてのベストセラー本の「夜と霧」の中で、未来に夢や希望を持てなかった人から死んでいったと書かれていました。
あの過酷な状況下においても、作者のフランクルは自分の体験を本にするという「希望」が生き抜く原動力だったと書かれていました。

今の日本では、「何としても生き抜いてやる!!」ということが目標にはなりにくいです。
物質的にはほぼ満たされていて、幸せへのヒントは精神的なものの中にしかないような気がします。
先ほどの無期懲役の受刑者たちの心の支えが「宗教」になっている人が多いと言われていました。
目に見えるものに幸せを見出しにくい時代には、精神的なものに幸せを求める時代になってくるように思います。

人は苦しい時に宗教に救いを求めていきます。
今の時代は、満たされすぎて、ある意味逆に生きることが苦しい時代なのかもしれません。
物では幸せを感じにくい時代において、人から認めてもらうこと、人の役に立つこと、自分の行いを自分で評価できることなどが、自分の存在意義を実感できる幸せな瞬間なのではないかと思います。

あるビジネス雑誌に、これからの企業は「何のために働くのか?」を社員に伝えていけない企業は淘汰されていく!ということが書かれていました。
社員に「人が働く理由」を納得させれない企業は、「同じ給料ならできるだけ楽をしたい」という社員が増え、社員レベルが低い会社になり、お客様からも評価されなくなってくるという論理らしいです。

人が頑張るには「頑張る理由」が必要なように、人が生きていくためには「生きていく理由」を持っている人間は強いのだと思います。
「人が生きていく理由」それを「使命」とか「ミッション」と言い換えるのだと思います。
自分の使命に気づいた人が「幸せ」という目に見えないものを手にすることができるのだと思います。

幸せを感じる

私の心がけている習慣の1つに「幸せだなー」とつぶやくことがあります。
何かいいことがあったからつぶやく時もありますが、何もなくても「幸せだなー」とつぶやいて、その後で幸せの理由を捜す場合が多いです。

何かを与えてもらって幸せを感じることは誰でも出来ますが、なかなか大きな幸せはそう頻繁に与えてもらう機会があるものではありません。
そうなると、与えられることを待っていたのでは幸せを実感できる回数が極度に少なくなってしまいます。

「幸せになる」のではなく「幸せを感じる」ことが「幸せ」の本質だと思います。
小さな幸せに感謝できる習慣を身につけることで、時々やってくる、与えられる大きな幸せにも、今まで以上の喜びを実感できるのだと思います。

本来、幸せはどこにでも落ちているはずです。
「感謝」の反対は「当たり前」です。
感謝できれば、幸せを感じます。幸せを感じられないのは、感謝できないからです。感謝できないのは、当たり前だと思っているからです。

世の中が便利になる事はいい事です。
しかし、便利になればなるほど、当たり前が増えていく事は、人間として不幸になっているのかもしれません。

「今日も晴れててありがたいな」「今日も雨がふって水が使えてありがたいな」「本によって他人の経験が勉強できてありがたいな」「今日も健康に過ごせてありがたいな」「風邪ぐらいの病気をすることで健康の大切さを再認識できてありがたいな」・・・・

グチを言うのも言葉、幸せの理由を捜すのも同じ言葉ですが、発する言葉でその人の未来が違ってくるのです。
今の考え方が、その人の未来を創っていくのです。

  • B!